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立野遺跡発掘調査 ブログトップ
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2005-12-13 垂直写真 [立野遺跡発掘調査]

 本日、古墳前庭部上部の敷石の垂直写真を撮影。毎度の事で恐縮ですが、「どこでも垂直写真」です。

 

 ちなみに、現在の調査状況は下の写真の通りです。ちょっと人数が多いかも?前庭部の上部の敷石に比べ、下部の敷石が方形に整った形で敷かれているのがわかります。石室周りの盛土もあと少しで、実測・掘り下げが終了しますので、凝灰岩石室が姿を現します。盗掘は受けているようですが、何かおこぼれでもあれば良いのですが・・・。

 明日は、駒沢大学の学生さんが、この古墳の見学に来る予定です。昨日から、上州名物空っ風が強く吹き始めています。都内とは気温が数度違いますので、防寒対策を忘れずに。お待ちしております。


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2005-12-12 8世紀 [立野遺跡発掘調査]

 古墳前庭部の上部敷石の中に確認されていた土器は、須恵器の碗でした。8世紀(奈良時代)代に入ってしまいますので、追葬時期になりますが、現状で、本古墳群中最も新しい古墳となる可能性が出てきました。

 奥壁西側コーナー部の一段目の截石は、組み合わせではなく、一枚の石をL字にカーブをもたせて設置しています。玄室は、本地域特有の胴張型ではなく、羽子板状になりそうです。これが、時期的な変遷によるものになるのかは、今後の検討課題です(そういえば、第2次調査で確認した第1号墳も羽子板型でした)。石室の奥壁部は、産廃の攪乱が、ほんの10cmのところまで迫っていました。石室が無傷で残っていたのが、不思議なくらいです。

 また、周溝は、石室前面では確認できず、全周しない模様です。


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2005-12-09 追葬 [立野遺跡発掘調査]

 本日、担当者は人間ドックのため、職免をいただきました。現場は、ピンチヒッター氏にお願いして、進行中のはずですが・・・。

 よって、本日の作業内容は不明です。昨日のネタで恐縮ですが、羨道部入口(前庭部)に敷かれた円礫。15cm程の間層を挟んで2枚あることが判明。どうやら追葬が行われているようです。下面の円礫は、まだ端部が顔を覗かせた程度ですが、非常に丁寧に方向を揃えて並べていますが、上面の円礫は、方向が揃わず雑然とした並べ方です。当初の被葬者は、複室石室に埋葬されるだけのことはあって、非常に丁寧に葬られたのですが、追葬者は、その関係者ということで、本人ではないので、少し手を抜いたのかもしれません。

 上面の敷石中央部に、完形となる土師器の坏が1点確認されています。これで、追葬の時期がある程度判ると思います。後は、下面の敷石からも出土すると良いのですが。


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2005-12-08 複室石室2 [立野遺跡発掘調査]

 本日、産廃による削平をかろうじて免れた玄室の奥壁を確認。石室上面の確認面での計測では、玄室長3.2m、前室長1.3m、羨道部長1.3mの、全長5.8m程の石室になります。玄室の側壁は、一部トレンチで確認したところ、1枚岩の凝灰岩を使用しています。前室部の高さは1.25cm程です(下写真)。

 当初予想したよりかなり保存状況は良さそうです。別に、駒澤の学生さんに隠していたわけではありませんが、諸般の事情で、手が付けられなかったもので・・・。残り物には福がある?

 

 しかし、一番下の段と2段目の石組みの間に、内側へのずれが認められます。石室内を掘るのにいやな予感が・・・。

 


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2005-12-07 複室石室 [立野遺跡発掘調査]

 羨道部と玄室で構成される単室構造の石室かと思われた、本古墳。昨日紹介したように、幅が85cmとちょっと狭すぎるので、いくら内傾して石室を積み上げているにしてもおかしいと思っていたのですが、本日、実は複室構造(玄室・前室・羨道部から構成:立野古墳群中初確認)の石室であることが判明。85cmの幅は、前室部の幅でした。

 墳丘が、地境の立木部分しか残っていなかったので、見た目は小型の古墳と判断したのですが、複室構造となると、30m近い古墳となる可能性があり、本古墳群中でも最大規模の古墳となる可能性が出てきました。両側が削平されており、石室部のみ残っていたのは、幸いでした。

 下の写真は、前室部西側に入れたトレンチの掘り下げ状況です。小型の凝灰岩で4段、大型のもので3段の截石が積み上げられています。

 

 遺物は、前庭部に敷かれた円礫上から鉄鏃が1点出土しました。先端部は欠損していますが、三角形または五角形の鏃身部形態をとるものと推測され、7世紀代に属するものと考えられます。

 最近、めっきり日暮れが早くなりました。16時20分位が作業時間の限界です。下の写真は、昨日移動した、ローリングタワーの間に覗く、三日月(月齢5.7days:33%)です。16時30分頃撮影。


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2005-12-06 ローリングタワー [立野遺跡発掘調査]

 本日朝方小雨。天気予報では午後から晴れるとのことでしたので、そのまま続行。第4号墳南側に設置してあった3段のローリングタワーを、移動・設置。

 

 石室プランを確認するため、石室上部まで掘り下げを実施。石室は、凝灰岩の截石で、石室玄門と側壁の一部を確認。側壁は、截石を3段に積んでいます。奥壁側の側壁が確認できないので、盗掘等の攪乱で抜き取られている可能性が考えられます。羨道部も凝灰岩截石を使用しており、羨門部前に、河原石が敷かれている模様です。かなり狭い石室で、玄室部上部幅は85cm程しかありません。

 

 


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2005-12-05 引越 [立野遺跡発掘調査]

 本日より別地点の調査に入るため、休憩所と仮設ハウス・トイレの移動を実施。仮設ハウスは重機に吊って移動してもらいましたが、トイレは、若干中身が入っていたため人力で引きずって移動(吊り上げて底が抜けると大騒ぎになるので・・・)。

 

 作業は、古墳1基の内容確認調査を実施します。既に両側を産廃による掘削のため消滅状態。幸いなことに石室部分は残存している模様です。直径20m以下の小型の古墳です。羨道部は入口部で河原石が既に覗いており、河原石積のようですがですが、玄室部は、どうやら凝灰岩の截石を使用している模様です。名づけてキメラ石室?

 ちなみに、かつて調査した塩西原9号墳では、玄室の奥壁部分のみ凝灰岩の截石が使用され、他は河原石積の石室でした。どうゆうわけか、このような石室が存在するようです。


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2005-12-03 空撮 [立野遺跡発掘調査]

 本日、ラジコンヘリによる、調査区の航空測量を実施。1日晴天のため、ちょっとコントラストが強かったのですが、無事に終了。

 MP4の動画がアップロード可能となったので、デジタルカメラの動画機能で撮影した、ラジコンヘリが飛び立つ場面を、MP4に変換して試しに公開します。(調査の記録は、デジタルビデオカメラでも記録しているのですが、動画で公開する動きのあるものが、発掘調査では無かったので・・・)

 28秒程で、9.3Mbのデータ量を、MP4に変換圧縮して869Kbに。ちょっと圧縮しすぎて、画面の一部がぼやけて見えます。音声を分離して消去し、その分を画質のupにまわせば(動画サイズは1Mb以下の規定)と思いましたが、とりあえず、試作品ということで。

 

 また、撮影中に、F市のN君来訪。近況の情報交換。昨日報告した「寺」の墨書土器について、「寺」という墨書土器が出土したからといって、必ずしも「寺」関連の宗教施設が存在したとは限らず、役所的な公的機関においても、当時は「寺」と認識されていた可能性もある旨の指摘あり。また、第4号墳墳丘盛土の土嚢積工法の可能性については、関西地方の土質の盛土と違って、関東ローム層起源の盛土では、あの程度でも充分ありえるのではとの見解でした。

 土嚢積説いけるかな?などとN君が帰った後思いながら、ふと現場の仮設ハウスの前を見ると、1年前の国体馬場馬術競技において使用した、仮設の配水施設の穴(沈殿槽)があり、その竪坑壁面には土嚢積が施してありました(下写真)。

 

 下部の垂直に近い部分は、土嚢を横にして積上げているため、土嚢のお尻が並びます。これに対し上部の2段は、緩斜面となり、土嚢を斜めに置いています。第4号墳の土留帯もそれ程急角度ではなかったし、これはと思い、おもむろにカッターを取り出し、上部2段の土嚢袋を切って、土の塊を露出させてみたのが下の写真です(注:本施設は今機能していなく、まもなく撤去予定)。本遺跡第4号墳例に近いのでは?

 

 そして、下部の土嚢積が、下の写真です。大阪府羽曳野市蔵塚古墳の土嚢積はまさにこの積方です。土嚢の積み方にも色々あるという事で、いかがでしょうか?

 


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2005-12-02 寺 [立野遺跡発掘調査]

 「大家」の墨書土器が出土した第8号住居跡。現在出土遺物の水洗作業を進めていますが、本日、別の墨書土器を発見。9世紀頃の土師器坏(灯明皿)の外面底部に「」の文字が墨書されていました(下写真:二寸ではありません)。

 9世紀頃の布目瓦も出土していますし、大きな掘立柱建物も確認されていますので、平安時代の寺院(お堂?)のようなものが存在したのかも知れません。本遺跡北東約1kmには、平安時代の伽藍をもつ寺内古代寺院跡が存在していますので、その関係が注目されます。

 

 現場は、本日、遺構の清掃作業を実施。夏に掘った古墳の周溝は、ほとんど埋没しかけていましたので、大急ぎで掘り直しました。僅か3ヶ月でこれほど埋まってしまうとは。当時の周辺環境とは当然違いますが、終末期のだらだらとした古墳の周溝は、果たしてどれ程の期間、それと認識できたのでしょうか?

 明日は、ラジコンヘリを飛ばして、空撮です。雨が降らないこと&風で落ち葉が流れ込まないことを祈ります。

 


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2005-12-01 間一髪 [立野遺跡発掘調査]

 第14号住居跡の壁面精査中、カブトムシの幼虫を発見。よく、セミの幼虫など移植ゴテで切ってしまうことが多いのですが、間一髪、無事に検出できました。

 

 ちなみに、この住居跡、9世紀頃の須恵器が出土していますが、カマドが無く、平面形が8角形になる、不思議な形の住居跡です。

 


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